Island in Setouchi (2)Teshima
高松回りで豊島(てしま)へ
島周遊バスはほとんど外国人、全員豊島美術館へ
私は別の港、唐櫃(からと)の秋祭りへ
長い参道を歩き八幡神社へ
台風の中、祭りは決行
天狗が厄払い
神事にかかせない大麻の縄
女の子の着物を着た男の子二人が乗った太鼓台
これと神輿がせめぎあって海岸まで行き、また戻る
みなに婦人会の作った新米のおにぎりではなく、コンビニおにぎりと飲み物がふるまわれる
ごちそうさま
風避けの高い石垣が巡る海側の集落
1975年人口2150人、現在は850人ほど、高齢者が半分以上。
米を移出するほど豊かだった棚田は、ほとんどが荒廃した。
賀川豊彦と藤崎盛一により、農民福音学校(1947~1982年)や
立体農業研究所(日本のパーマカルチャーとも言われる)が開かれる。
前者は、デンマークのフォルケ・ホイ・スコーレを目指したようだ。
30代の私はそのひとつ、The Travelling Fork Highschool「旅する人々の学校」に行き、
南部アフリカ・ザンビアの小学校を回り果樹園作りをしていた。
(明石書店「生のための学校」参照)
上記を引き継ぐ土曜農民学校は時々開かれているようなので、今度参加したい。
港の看板
午後は住民会議による、日本最大量91万トンの有害産業廃棄物不法投棄・
豊島事件の話ともと産廃現場へ
島の西部・国立公園の水の浦、300x400m、最高18mの高さがあったもと産廃現場
左:海に汚染水が行かないよう鉄の防護壁(18m)建設
ここから、もと産廃現場の資料館
産廃のほとんどは、廃棄車のシュレッダーダスト(鉄以外の廃プラスチック)
産廃はすべて直島へ運ばれたので、ここしか残っていない。
住民はあらゆる行動を起こすが、個人による不法投棄は、
1975~1990年兵庫県警による摘発まで続いた。
県庁、国会への陳情、座り込みや立ちんぼ、署名など。
子供たちの喘息が増え、魚も死んでいった。
しかし、ダイオキシン、有機化合物、鉛などの重金属などの産廃はそのまま。
1993年に公害調停申し立て、2000年調停成立
その間にも100か所連続座談会、銀座でのデモなど。
その後、やっと2000年から処理施設建設、
2017年、隣の直島・三菱マテリアル銅精錬所(放射能ガレキも焼却しているという)
に作った溶融炉で処理完了した。
しかし、もと産廃現場の復興は長い道のり、
最近、島の南部・東洋オリーブ園近くに
廃棄物を埋めて大型ソーラーパネル建設問題が起こっている。
会社は、もうけたら自己破産して逃げることもよくあるという。補助金のためか・・?
今回担当してくれたのは、70歳の男性。でも(後に引き継ぐ世代がいない)という・・
(豊島事件の説明は不十分なので、各自調べてみてください)
住民会議は、ひとりでもお話・見学可。