2017年2月18日土曜日

三里塚に生きる

 

The Wages of Resistance:Narita Stories
 
1966年、国が一方的に成田市三里塚に国際空港建設を決定し、
農民たちの反対運動が始まった。
高度成長の真っ只中。日本人が「エコノミックアニマル」と世界で呼ばれていたころ、東京オリンピックの2年後
 
私が大学に入学したのは、1974年、
大学では学費値上げ闘争の終盤で、人文学部長室を占拠していた。
その後、学費はスライド制になったが・・
 
そのころ、三里塚は第2次強制執行の後で、
落花生農家の援農や農産物を学内で販売したりした。
 
今、40代のひとでも「三里塚って何?」と真顔で聞かれる。
記憶・事実自体が、語り継がれてないのだ
(世界のたくさんの忘れられかけている事実・歴史のひとつかもしれない)
 
 
写真は、第1と第2滑走路の間で現在も農業を営む
もと青年行動隊リーダーの柳川さん、
 
開拓農民だった大木よね(もと婦人行動隊)は、読み書きできないので、
支援者が彼女の言葉を立て看板に書き、強制執行に望んだ。
 
(信州や福島で自給をめざしていたころ、
近所の戦後の開拓農民のひとたちから多くの生きる知恵を学んだ)
 
三里塚シリーズを製作した小川プロのカメラマンもした監督の大津さんは、
45年ぶりに三里塚を訪ね、2年かけてこの映画を製作。
上映された2014年、84才で亡くなる